マイク・ダッシュ著『チューリップバブル』、読了。素晴らしい。
ヒマラヤ山脈の北方、天山山脈の山麓に自生していたチューリップの原種がトルコ系遊牧民の西への進出、その後のオスマン・トルコ帝国の西への拡大とともにやがてオランダへと伝わり、1636年12月から1637年1月に掛けてのチューリップバブルを引きおこすまでの話。
これを読むとチューリップバブルは歴史の必然だったとさえ思えてくる。歴史学の学位を持つ著者はチューリップバブルに関してよく参照される文献である Charles Mackay 著『狂気とバブル』(1841年初版)を以下のように酷評するところから本書を始めている。
マッカイの説は強い影響力をもっていはいるが、扱われている事例はほとんどが不正確であり、誤解に基づいていた。にもかかわらず、その後登場する関連の著作はほとんどマッカイの過ちに毒され、ほぼ一律にあきれかえった口調でこの出来事を語っているのであった。
当時のオランダは狂っていた。株式市場の関係者も正気ではなかった。あの狂乱の原因は説明不可能であると。
『チューリップバブル』 p8
チューリップは株式市場関係者によって取引されていたわけではない(驚くべきことに当時のオランダにはすでに株式市場と専用の取引所が存在していた)。また珍種のチューリップはバブルに関わらず金持ちの間で非常に高値で取引されていた。これに関する面白い以下のようなエピソードを著者は紹介している。
英国女王やフランス女王を自らの舘に招待できるくらいの権勢を誇っていたオランダの富豪アードリアーン・パウは造園に並々ならぬ情熱を注いでいた。そんなパウの舘の庭にあるチューリップの花壇には ある秘密があった。
秘密とは、木材と巧妙な角度で位置する数枚の鏡が組み合わさった装置で、チューリップ花壇の真ん中に立っていた。その前にある物を何倍にも増やして見せる鏡の箱である。
『チューリップバブル』 p124
つまりパウほどの富豪でさえ、自分の花壇に飾るのにふさわしい珍種のチューリップを十分なかず手に入れることはできなかったのだ。そのため鏡でチューリップを増やして見せるしかなかったのだ。珍種のチューリップの値段がある程度高騰するのも無理のない話だ。
さてチューリップバブルの原因のひとつには 現物取引ではなくチューリップの先物取引が行なわれるようになったことがある。また、そうでなくてもチューリップは球根の状態で取引されることが普通なので、どんな花が咲くかを知るためのカタログが必要になる。前にも紹介したけど、これこそが当時のチューリップの絵を多数収録した書籍が現存する理由である。レンブラントの最初の師匠にあたる画家 Jacob van Swanenburgh もカタログのためのチューリップ画を描いていたそうだ。
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