脳ざらし紀行


2003-11-23

_ 感謝祭

よく知らないんですが、アメリカではもうすぐ感謝祭だそうです。アメリカの感謝祭はアメリカにたどり着いて死にかけていた清教徒をネイティブアメリカンが色々と助けてくれたことを記念して制定された日だそうです。

さてここで疑問が起きます。イギリスから来た清教徒たちとネイティブアメリカンはいったいどうやってコミュニケーションしたのでしょうか。

1.見ぶり手振り

2.筆談

3.清教徒たちがネイティブアメリカンの言葉を覚えた

4.そのネイティブアメリカンがたまたま英語を喋れた。

正解は

.

.

.

「4.そのネイティブアメリカンがたまたま英語を喋れた。」です。彼らの名前は Squantoと Samoset。特にSquantoは英語の他にスペイン語も達者でした。いったい彼はどうして英語とスペイン語を話せることができたのでしょうか。彼の人生は波乱に満ちたものでした。

スクワントというのは,当時マサチューセッツ州プリマスに住んでいたアメリカインディアンの男の人です。その頃,イギリスの舟がその地方に頻繁にやってくるようになりました。品物だけではなく,奴隷がいい商売になることが分かった商人は,その地方の強いインディアンを無理矢理イギリスに連れて行って売りました。そのうちの一人がスクアントだったのです。スクアントは英語を学んで一生懸命働きました。しかし,ふるさとが恋しくてしかたがなかったのです。彼の主人はかわいそうに思って帰してあげました。1614年にジョン・スミス船長の舟で帰ってきました。船長は,商売のために一艘の舟を残しました。その舟を任されていたハントは欲の深い人間で,インディアンをまた奴隷として連れて行きました。そのうちの一人がまたしてもスクアントだったのです。

ふるさとにいられた期間はたったの数週間でした。ハントはイギリスに奴隷を連れて行ってはジョン・スミス船長に叱られると思い,途中のスペインで奴隷を売りました。スクアントの新しい主人はカトリックの修道士で,彼にキリスト教の信仰を教え,親切にしてくれました。それだけではなく,彼をかわいそうに思い,アメリカに帰るのを手伝ってあげました。1619年に再びスクアントはふるさとに帰ることができました。しかし,彼を待ち受けていたのは信じられない光景でした。自分の部族は皆死んでいたのです。それは,イギリス人が持ってきた天然痘のためだったということを隣の部族から聞き,彼はその部族に移り住んで暮らすようになりました。

1年たった時に,そこにやって来たのが清教徒たちでした。スクアントはどうしたでしょうか。彼を2度に渡って奴隷として売り飛ばしたのはイギリス人でした。彼の部族の人間全員を殺した天然痘を持ってきたのもイギリス人でした。敵対心を持つのは当然のことでした。しかし,スクアントはこの清教徒を助ける決心をしたのです。彼はスペインに住んでいた時にクリスチャンになっていました。そして,長くイギリスにいたので英語を話すこともできました。スクアントは清教徒たちに狩りのしかた,家の建て方,インディアンと仲良くなる方法,種の植え方,料理のしかたを教えてあげました。スクアントに教わって一生懸命働いた清教徒たちの秋の収穫は素晴らしいものでした。彼らはお祝いをしたいと思い,スクアントに頼んでインディアンを招待しました。なんと92人のインディアンが来ました。彼らが持ってきてくれたものも使って素晴らしいご馳走を楽しみ,秋の実りを一緒に神様に感謝したのです。

日本キリスト教団 十二使徒教会 礼拝説教1999年8月1日(日)

ええ話や。

Wikipedia:SquantoTisquantum (or Squanto)

お名前:
E-mail:
コメント:
本日のリンク元

最近のコメント

2003|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2004|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2005|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|04|05|
2011|04|
2012|03|07|
2013|01|02|07|
トップ «前の日記(2003-11-22) 最新 次の日記(2003-11-26)» 編集