荒川さんの議論が良く分からない。
まず第一にオープンソースは既存のソフトウェア産業の脅威になるか。ソフトウェア産業の内訳がパッケージ1割、自社向け3割、受注ソフトが6割だ。産業の発展とともにこの数字は変化しているけど、パッケージの占める割合が低いのはどの年代でも言える。例えば、元橋氏の論文のP31を参照。オープンソースが競合するとするなら既存のソフトウェア産業の内パッケージと競合するだろう。しかし、それはソフトウェア産業の1割でしかない。なぜオープンソースが脅威になるのだろう。
「産業構造」というのは「ある特定の産業の構造」ではなく「経済全体に占める産業の構成比率」を指す。この場合の「産業構造」の意味は明らかだ。別に「ある特定の産業の構造」の意味で「産業構造」という言葉を使ってもいいけど、その場合「産業構造」というものが何を指すのか僕には良く分からない。「構造」という言葉は何でも説明できてしまう危険な言葉だ。きちんと理解して説明しておかないといけない。梅田さんが観察していると言ってる「構造」とは何だろうか。
ヨーラム・バーゼル氏によるプロパティー・ライツを新制度派的アプローチで分析した本。
知的所有権を考える前に、所有権について考えることにした。迂遠なようだけど、まあ専門的にやるわけでもないのでそんなに時間は掛からないだろう。
所有権は純粋な知的好奇心以外の理由でも研究されてきた。所有権は経済学の複数のテーマと関わっている。ひとつは「環境問題」。大きな規模では「二酸化炭素排出権」、小さな規模では「フィッシング・ライセンス」と本来無いはずのある種の所有権を設定することによって、特定の目的を達成する方法が環境問題の分野で研究されている。
所有権はコーポレートガバナンスにも関係する。訳者である丹沢氏の序文から引用する。
本書の内容が、このように制度や規制、慣習といった社会現象の法的分析と経済的分析の境界上にあることは、法的プロパティー・ライツが「国家によって強制される権利」であるのに対して、経済的プロパティー・ライツが、「財の価値を享受する能力」と定義される点に由来している。単に「享受する能力」であれば、さまざまな関係者がこの権利を持ちうることはいうまでもない。例えば、配当される利潤を短期的に減少させるにもかかわらず、企業の長期的な成長や安定性のために社内留保を高めようとする経営者、あるいは従業員的な発想は、法的には「株主の資産」としか理解され得ない「企業価値」を、現実に「社内留保を高め、会社の安定性を高めて自分の利害を実現させることで企業価値を享受する」従業員が「経済的なプロパティー・ライツを所有していること」を示している。ここに、各ステークホルダーと企業統治の問題、すなわちコーポレートガバナンスの問題の本質があると言えるだろう。
財産権・所有権の経済分析 訳者序文より
そして、知的所有権に関しても所有権は関係してくる。
環境問題、コーポレートガバナンス、そして知的所有権に重なり合う部分があるというのは非常に興味深い。
で、この本を読んでいる。何というか、驚くような結論は出てこない。結論として現実の経済と違った奇妙奇天烈な回答が得られたらそれの方が変だろう。最初の内に出てくる例はみな平凡で退屈だ。けど、あらためてプロパティー・ライツの観点から見てみると、平凡な現象にもそれなりのおもしろさがある。著者の定義する法的な意味より広い経済的な「プロパティー・ライツ」を簡単な例から学ぶことを意図した構成になっている。
現在第8章。
この本で著者が言っていることは次のふたつ。
ひとつめ。経済的プロパティー・ライツを「期待された期間にその財(あるいは資産のサービス)を直接的に消費する個人の能力、あるいは交換して間接的に消費する個人の能力」と定義する。この定義は法的なそれよりも非常に広い。極端な話、泥棒でさえある財に対して幾ばくかのプロパティー・ライツを持つことになる。
ふたつめ。人々は可能な手段を使って取引から得られる(期待)純利得をからコストを差し引いたものを最大化しようとする。
この妥当と思われるふたつを出発点にプロパティー・ライツが関係する経済現象を著者は分析していく。
著者の議論に特徴的なこととして、常に分析から導かれる結論が論駁可能かどうかを常に気をつけている点が挙げられる。これは「制度」というどうにでも言えてしまう対象を分析する上では重要な姿勢だ。
「財産権・所有権の経済分析」には「公共領域に置かれた財」という特徴的な言い回しが出てくる。具体的には「道端に落ちているお金」をイメージすればいい。道端にお金が落ちている時、人はどのように振舞うだろうか。ある人は急いで駆け寄るだろうし、ある人は行儀良く行列をつくるかもしれない。暴力に訴えるかもしれないし、政治家に働き掛けるかもしれない。人々は可能な手段を使って取引から得られる(期待)純利得をからコストを差し引いたものを最大化しようとする。
さて、現実に公共領域に財が置かれていることなんて頻繁にあるだろうか。頻繁にあると著者は言う。なぜなら、契約はいつも不完全だし、未来を完璧に予測することはできないし、人の行動をモニターするにもコストが掛かるからだ。こういうのをひっくるめて取引コストという。
まつもとさんの
価値があるソフトウェアには、それからお金を生む方法がある。
というのはそれはそのとおりだと思います。だけど、オープンソースのように公共領域に財が置かれている場合、開発者以外の人々も含めて全員が可能なあらゆる手段を使って利益を得ようとします。果たして開発者はその競争にうちかって利益を得ることができるでしょうか。
で、注意すべき点はオープンソースの開発者が全てのプロパティー・ライツを放棄しているわけではないことです。プロパティー・ライツの定義は広く多くのものを含むことが重要になってくると僕は思います。ソフトの消費が競合しないことも。
と、これくらいしかまだ考えられていません。
てなところで続きは次回。
岡口裁判官のblogより。
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