レッシグは「CODE」において「コードは法である」と書いた。社会においてもネット上においても法律を含んだ「コード」が現実を規定していること、憲法で保障されている権利はどのように「コード」の言葉で翻訳されうるかを書いた。
読んだ人はなるほどねと納得する。そして、次のような疑問を持つ。「コード」が重要なのは分かった。ではどれくらい重要なんだろう。「コード」は一体現実の現象をどの程度説明することが出来るのだろう。例えば「コード」を思いのままに書き換えることが出来る人がいたとして、その人は一体どれくらい自由に物事を操作することが出来るのだろうか。
ぐるりと当たりを見回しても、そんな人はいないような気がする。インターネットは分散した仕組みで誰かが何かの「コード」を書き換えてもそれが全体に影響することはない。現実社会においては日本などの国は、まがりなりにも民主主義だから、誰も好き勝手に法律を変えることは出来ない。
しかしここで、「はてな」の近藤さんはまさに「コード」を自在に書き換えることが出来る立場にあることに気づく。ここでの「コード」は「はてな」のサービスを提供するために使われているソフトウェアと「はてな」の規約両方のことを指す。
「コード」は人々の振る舞いを規定する。「アーキテクチャ」と規約、ふたつの「コード」を自由に書き換えることが出来る近藤さんは、さぞかし思い通りにことを運んでいるのではないだろうか。本当のところは本人に聞いてみないと分からない。
とはいえ、端から見ていて例え「コード」を自由に書き換えられる立場にあったとしてもいくつかの制約条件があることに気がつく。いかつらつらと書いてみる。
使えるマンパワーには制限がある。
「アーキテクチャ」上で人々がどのように振舞うかをあらかじめ予想するのは困難である。
人々の振る舞いは現在だけでなく過去にも依存する。つまり、エイヤッとリセットしてゼロからはじめることは「コード」をいくら書き換えても出来ない。「コード」で過去を断ち切ることは出来ない。
「アーキテクチャ」と「法律」は相互作用する。これにより、人々の振る舞いを事前に予想することはさらに困難になる。
「アーキテクチャ」や「法律」を変更すること自体が人々の振る舞いおよび感情に影響を与える。人々は「コード」の変更を予想するようになる(おお!ルーカス批判)。人々は自分に有利な「コード」の変更を期待するようになる。
届いた。普通の文法書だった。読んで楽しいものではないけど、少なくとも1冊は必要だろう。英語の文法書の善し悪しを語れるほど英語が得意ではないので、良い本かどうかは良く分からない。ネット上で調べた限りでは非常に高い評価を得ている。
英語を学ぶ努力の10分の1でも日本語を学ぶことに振り向けたら良いのでは、とふと思って買ってみた。「日本語のしくみがわかる本」とどちらにしようか迷ったけど、こっちの方が安いし本屋にあったのでこっちにした。
僕は一応こうやって日本語が出来るわけですから日本語の文法の本を読んだって、マーク・ピーターセンの「日本人の英語」を読んだときみたいに目から鱗が落ちることはないだろうと思っていた。
間違っていた。だいたい7,8枚目から鱗が落ちた。
日本語の動詞はどうしてこんなに活用するか。
「を」「と」「に」、自動詞と他動詞の違い。
日本語に未来時制はない。
「れる/られる」はどうして「受け身」「尊敬」「自発」「可能」という一見すると無関係な意味を表せれるのか。
「は」は「主題」を表す。「主題」と「主語」は違う。
日本語にはどうして関係代名詞がないのか。
国文法はどうしてこんなに問題が多いか。
これで7つあるかな。大変おもしろかった。
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